2010.1.31掲載 ソプラノ 勝俣さん

 「くさぶえ」に入って、この2月で2年になります。正確に言うと、復団して2年になろうとしています。前に入っていたのは、およそ28年前。(歳が知れてしまいますが…)
―――なんで、こんなにブランクがあったのか?
―――そして、なんでまた、くさぶえなのか?
それを思う時に、「くさぶえ」の存在の意味、魅力があるのじゃないかな、と思います。そして、それは奇跡とも言える出会いでした。

 のっけから、謎解きみたいですが、ちょっと古い話から始めてみます。

私は、父の影響で小さい時から音楽、歌が大好きでしたが、特別に合唱団にいたとかではありません。クラシック以外では、カンツォーネ、シャンソン、映画音楽など良く聴いていました。その後大学生の頃、ユーミンや井上揚水などニューミュージックが流行りだしましたが、それも聞きながらも、サークル関係だったのでうたごえの歌もよく歌っていました。荒木栄の「子どもを守るうた」はサークルの団歌でした。歌はみんなで歌うのが当たり前という環境でした。

 卒業し就職して、とても恵まれた職場で、そこで先輩の教師から音楽事務所ムジカを紹介され、「夏の合唱講座」に行ったのがムジカとの出会いでした。その後、「夏だけでなく春も合宿をやろう」という機運が講座生とムジカ職員から高まり、1979年1月に「春を呼ぶ合唱合宿」を行い、それが合唱団くさぶえを創る力になっていったのだと思います。その中の一人としていられたのが、やはり今につながっているのかと思います。ただ、私自身はその年に結婚し、くさぶえの練習や運営にも関わりながらも、ほぼ一年で産休に入ってしまい、なんと第一回の「たびだちコンサート」には参加していません。その後の20数年は、仕事と子育て、人生の一大転機も挟み、歌は仕事で歌うことくらいで、まったく合唱とは縁遠い生活でした。

 それが、たまたま9年前、仕事仲間から金子みすゞさんの童謡を大西進さんの作曲・指揮で歌う「みすゞコール」という合唱団に誘われ、合唱を始めることになりました。大西進さんの関係で、何度かコンサートにも出ることもあり、みんなと歌を創り上げていく楽しさ、喜びを知り、仕事以外で自分を表現できる場が持てたことが生活を豊かにしていったと思います。でも、なんとなく物足りない、みすゞさんの詩を歌う喜びや奥深さはあるけれど、発声まで突っ込めないもどかしさ。そこで、28年ぶりにムジカの合唱講座に通うことになったのが、くさぶえ復帰の先駆けになったのだと思います。直接には、前々回のくさぶえ定期演奏会に聴きに行ったことや、その前のムジカ合唱交流会で、くさぶえの「ねがい」を聴いたことがキッカケとしてあるし、その前に、古い友人として13回演奏会に誘ってくれた平野氏が大きく背中を押してくれたわけで、そこまで考えると、長いブランクの後に「くさぶえ」に再入団することは、必然だったのでは…と思えてくるのです。何かに導かれてきたように思うのです。

 いま、「くさぶえ」団員として、初めての()演奏会も経験し、その他にも毎週の密度濃い練習や、団員の役割として運営にちょっぴり関わったり、合宿や仲間作りの諸行事に参加したり、ほぼ生活の一部化しています。なによりも歌うことは、好きです。まだまだ日頃の鍛錬が足りず、呼吸法や発声のツボをつかめず、日によって声の出にムラがあり安定した発声にはなっていないのですが、でも、隣の人の声と擦り合わせるように歌えたとき、スーッと自然な声が出たとき、ふっと幸せな気持ちになるのです。そんな時がもっともっと増えていったらいいな、と思います。

 「くさぶえ」は昨年創立30年を迎え、記念の演奏会と、30歳を祝う誕生会を行ないました。この30年があったから、私はまた「くさぶえ」に戻ってくることができた。その頃からずっと歌い続けてきた団員や、その心を歌い継いできた多くの団員がいて、またこれからも歌い続けようとしている団員がいる。そこに大きな意味があると思います。私も、まだまだこれから、耳を澄まし、声と声を撚りあわせ、「たったひとつの歌」を歌っていきたいな、と思っています。

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